Abstract Is it possible to conduct research on Japanese racism in the same way as we do for racism in the West? In this essay, which is written as a short accompanying piece to a longer research article titled, “Racism in Japan and ‘The 1952 System’: Japanese Immigration Control Laws and the Rise of the ‘Zainichi Privilege’ Myth,” Yong-Song Ryang argues for the conceptual fine-tuning of racism as necessary for those who practice critical anti-racism as well as for understanding the relationship of knowledge and power as inseparable from such practices. Based on his case study of right-wing organization Zaitokukai (short for Zainichi tokken o yurusanai shimin no kai, literally, the Association of Citizens against the Special Privileges of the Zainichi [diasporic Koreans in Japan]), Yong-Song Ryang offers a critical overview of the existing works on racism in Japan. Ryang calls for a more nuanced understanding of right-wing movements and the racist myth of ethnic minorities as privileged. He does so by taking into consideration the entangled effects of postwar Japanese nationalism, Japanese immigration law, and neoliberalism, both in the specific local context as well as the global context.

English translation by Ikumi Yoshida

Editors’ note: “How Can We Criticize Racism in Japan?” is a short accompanying piece to Yong-Song Ryang’s longer article, “Racism in Japan and ‘The 1952 System’: Japanese Immigration Control Laws and the Rise of the ‘Zainichi Privilege’ Myth,” originally published in Japanese as “Nihon-gata Heitosupīchi o Sasaeru 1952-Nen Taisei: ‘Zainichi Tokken’ o Umidasu Sengo Nihon no Nyūkan Hōsei,” in Reishizumu wo Kangaeru, ed. Kiyohara Yu (Tokyo: Kyōwakoku, 2021), 195–213. At the author’s request and with permission from the publisher, the long essay, which was translated into English by Dina Hassan, is attached at the end of this essay for readers’ reference. 

日本のレイシズムをいかに批判すべきか?

──「在日特権」なるレイシズム言説を手がかりに──

日本のレイシズムは、欧米(the West)のレイシズムと、同じような方法で研究することができるのだろうか? 両者のあいだに共通する普遍性をみるべきなのか、あるいは差異ある特殊性をみるべきなのか、それともその両方なのか? 日本のレイシズムを研究する者を悩ませる問いである。1

現代日本のレイシズムを研究するうえで避けて通ることのできないほどのインパクトをもった、21世紀の新たな極右台頭現象についても、上の問いはつきまとっている。2007年に結成された「在特会」(「在日特権を許さない市民の会」)は初めて明示的にエスニックマイノリティへの差別を公然と掲げて結成された極右団体だったのである(樋口 2014)。

この在特会の台頭現象についても、欧米のレイシズムと共通する、普遍性を強調したのは酒井直樹である。2 酒井直樹は西洋社会(the West)での極右台頭現象との共通性をみいだし、「現在の人種主義は、ますます「自他の別」を強調し、国民のなかに入って来る者に対する排外主義の性格を強めてきている」と指摘する(酒井 2012: 41)。だがそれだけでなく酒井はこれらレイシズムに「平等への希求が表現」されているというのである。

差別と排除を旨とするはずの人種主義にも、じつは、人びとの平等への希求が表現されている点である。在特会(「在日特権を許さない市民の会」)のような運動のなかにも、一種の普遍主義の契機を看過すわけにはゆかない。しかし、彼らの普遍主義では、平等の権限の有資格者の集団としての民族が即時的に前提されてしまっているのである。〔在特会のような〕彼らの排外主義には、資格のない者が国民社会の有資格者であるかのように平等の権限を享受してしまっている、という告発が含まれているのである。在特会の人種主義は、この点で、移民排斥の運動や先に見たヨーロッパ極右の論理と共通するものをもっている。(酒井 2012: 40-41)

ネイションの外的境界での排除というレイシズムは、内的な平等の希求とセットになっている、だからレイシズムは単なる露骨な差別現象としてではなく、むしろ厄介な普遍性(平等への希求)をみなければならない、と酒井は私たちに警告しているレイシズムを批判するとき、それは単に醜悪な排除だけを批判するだけでは不十分なのであって、本当に重要なのはむしろレイシズムがある種の人間主義を要求していることであり、それをこそ批判しなければならない。その限りで酒井の批判は正しい。

だが、酒井の在特会にたいする批判には、それにもかかわらず、やはり重大な見落としがあるのではあるまいか。というのも、在特会らのレイシズムには、たとえ欧米諸国のレイシズムにもみられる普遍的な平等への希求が潜んでいるとしても、欧米諸国ではおそらくみられない特殊な側面を有しているように思われるからである。

他方、酒井とは対照的に、現象の特殊性に着目したといえるのは、たとえば樋口直人の『日本型排外主義』であり、それは日本のレイシズム現象を、東アジア冷戦という地政学的な要因によって説明した。3結論部分で次のように述べる。

日本型排外主義とは近隣諸国との関係により規定される外国人排斥の動きを指し、植民地清算と冷戦に立脚するものである。直接の標的になるのは在日外国人だが、排斥感情の根底にあるものは外国人に対するネガティブなステレオタイプよりもむしろ、近隣諸国との歴史的関係となる。その意味で、外国人の増加や職をめぐる競合といった外国で排外主義を生み出す要因は、日本型排外主義の説明に際してさしたる重要性をもたない(樋口直人2014: 204)。

樋口の結論は、現代日本のレイシズムが、朝鮮戦争体制の継続を核とした東アジア冷戦構造を抜きにしては説明がつかないことを正しく指摘している。

しかしながら樋口が重視する東アジア冷戦構造という地政学的な要因だけでは、ではなぜ在特会のような極右台頭が、同じく東アジア冷戦構造が成立していた20世紀には起こらなかったのかを、うまく説明することができないであろう(インターネットによる動員、というだけでは説明が弱いだろう(樋口 2014))。

そしてなによりも、「在日特権」というレイシズム言説が、なぜ戦後日本に存在しなかった極右が21世紀に新たに結成され台頭することになる際の極めて重要な媒介となったのかもまた、うまく説明できない。

単にレイシズムの普遍的性質を指摘するのみならず、単にローカルな地政学的な要因を指摘するのみならず、日本のレイシズム現象を欧米との共通点とともに差異を、普遍性とともにその特異性をも理解可能にするための研究が求められているといえよう。

「在日特権」というレイシズム言説が21世紀日本で極右台頭の重要な媒介となった理由として2つがあげられるだろう。新自由主義と、1952年体制という日本の入管体制である。

第一は、新自由主義である。ここでは詳述できないが(詳しくは梁 2020b)、「在日特権」言説は、単なるエスニックマイノリティへの差別でも、または単なるデマだけでもなく、市場を真の平等の尺度とする新自由主義的統治性(フーコー)と結びついている。もちろん欧米でもレイシズムは新自由主義と結びついているだろう。しかし欧州の極右が福祉ショービニズムを掲げるのに対し、日本の極右は極端に新自由主義的であることが指摘されている(小堀 2012、古賀 2015)。21世紀日本社会で新自由主義的統治性が強力に作動している状況下で、はじめて「在日特権」なる奇妙なレイシズム言説が(というのは、弱者であるはずのエスニックマイノリティが日本社会での特権者だ主張しているからだ)じっさいの効力を有すると考えられる。

第二は、1952年体制という、日本の入管体制である。これについては末尾の資料を参照していただきたい。この資料は、以上の問題意識に基づいて2017年に書かれ、19年に修正した論考を友人のDina Hassanが翻訳してくれた未発表原稿である(日本語版は梁 2021として発表)。

1952年体制とは、大沼保昭(1978[1993])が定式化した、1952年のサンフランシスコ講和条約発効時に成立した、(1)入管令、(2)外国人登録法、(3)「法126」(後述の通りサンフランシスコ講和条約発効時に日本国籍を喪失させられた人々に、在留資格のないまま、暫定的な在留を認めた法律)という3つの柱を有した、戦後入管法の基礎である。

もちろん1952年体制はその後幾多の法改正を経ており変容を遂げてきた。一方で在日コリアンなど旧植民地出身者に対しては、特に上の(3)「法126」は1991年の入管特例法によって特別永住資格が認められるようになった。他方で日本経済のグローバル化に伴い1980年代から急増した移住労働者に対しては、特に1989年に上の(1)にあたる入管法の改正が行われ建前では単純労働移入を原則禁止するものの実際には定住や研修や留学などといった「サイドドア」からの資本にとって好都合な労働力移入を妨げない入管体制がつくられたと言って良い4。もちろんその後も入管法は対テロ戦争や入管行政のIT化などの文脈で今日まで幾度も改正されてきた。

しかし、資料をお読みいただければおわかりのとおり、私は(梁 2016,2020a,2020bなどでも)この1952年体制がもちろん法改正を伴いながらも、依然として日本の入管法の構造を特徴づけているという意味で、現在も継続していると考えている。その要点は、1952年体制が、1と2が入管法という一般法なのにたいして、3が「法126」という特殊法の関係にあり、したがって一般法を基準にして特殊法で守られた人々(「法126」系列の旧植民地出身者)を「特権者」として攻撃することは十分な戦略的合理性が存在する、ということである。さらに入管法の外部にも、入管法の執行にたいする実質的な歯止めとして機能しうる人種差別禁止法や反レイシズムの社会規範が戦後日本社会ではつくられたなかったために、在日コリアンへの差別政策は、アパルトヘイト政策のような公的な明示的な人種差別政策なしに、入管体制(1952年体制)によってそれを代用してきた、ということである。

冒頭の、酒井の批判に戻ろう。たしかに在特会らのレイシズムにも、「平等への希求」がないわけではないのかもしれない。だが、その「平等」は、新自由主義的統治性によっていわば腐敗させられているのではなかろうか? さらには、1952年体制という日本型の入管体制(つまり差別禁止法や多文化主義政策なしに、入管法によって非日本国籍者を扱うのを大原則としたうえで、「法126」(いまでは特別永住)によって特別扱いするという体制)のうえで、入管法の一般性によって、特別永住を特権視するという、入管体制の形態に即した形で新自由主義的統治性が作動しているからこそ、「在日特権」なるレイシズム言説が猛威をふるうことができたのではあるまいか? もしも日本のレイシズムにも欧米のレイシズムと同じように「普遍主義」(「平等への希求」)が含まれているとしても、だからこそ、じっさいのレイシズム現象がどのように現実の権力関係のなかで現れているのかという特異性を見落としてはならないだろう。

本研究はJSPS 科研費23K12614の助成を受けた研究成果を反映したものである。

参考文献

Etienne Balibar, “Racism and Nationalism”, E. Balibar and I. Wallerstein, eds, Race, Nation, Class: Ambiguous Identities (London: Verso, 2011).

エティエンヌ・バリバール, 佐藤嘉幸訳, 2012,「レイシズムの構築」(鵜飼哲, 酒井直樹, テッサ・モーリス=スズキ, 李孝徳編, 2012, 『レイシズム・スタディーズ序説』, 以文社).

明石純一, 2010, 『入国管理政策──「1990年体制」の成立と展開』, ナカニシヤ出版.

酒井直樹, 2012, 「レイシズム・スタディーズへの視座」(鵜飼哲, 酒井直樹, テッサ・モーリス=スズキ, 李孝徳編, 2012, 『レイシズム・スタディーズ序説』, 以文社).

樋口直人, 2014, 『日本型排外主義──在特会・外国人参政権・東アジア地政学』名古屋大学出版会.

梁英聖, 2016, 『日本型ヘイトスピーチとは何か──社会を破壊するレイシズムの登場』影書房.

梁英聖, 2021,「日本型ヘイトスピーチを支える一九五二年体制──「在日特権」を生み出す戦後日本の入管法制」, (清原悠編, 2021,『レイシズムを考える』, 共和国).

梁英聖, 2020a, 『レイシズムとは何か』, 筑摩書房.

梁英聖, 2020b, 「一九五二年体制と現代日本の新自由主義的レイシズムに関する一考察」(一橋大学審査博士学位論文、未刊行).

古賀光生, 2015, 「欧州における右翼ポピュリスト政党の台頭」, 山崎望編,『奇妙なナショナリズムに抗して』,岩波書店.

小堀眞裕, 2012, 「ポピュリズムの日英比較:ネオ・リベラル的ポピュリズムという日本の「特色」」, 立命館法学2012 年5 ・6 号(345・346号)

大沼保昭, 1978, 「出入国管理法制の制定過程──一九五二年体制の前史──」, 寺沢一他編, 『国際法学の再構築(下)』, 東大出版会, (再録:1993, 『新版 単一民族社会の神話を超えて──在日韓国・朝鮮人と出入国管理体制』東信堂.)

English translation by Ikumi Yoshida

Is it possible to conduct research on Japanese racism in the same way as we do for racism in the West? Should we find commonalities between these two or focus more on the differences or specificities? Researchers may ask these questions as they tackle the topic of racism in Japan. To be clear, I do not intend to essentialize racism in Japan as well as in the West nor am I asking readers to simply compare the two. My intention is rather to emphasize that we should not look away when we are forced to confront these questions while researching Japanese racism, because power relations limit other choices for us. As Étienne Balibar suggests, the category of racism itself has been reproduced on the level of knowledge-power in post-World War II anti-racist practices.5 He also argued that racism and nationalism complement each other.6

With this, I write to argue for the conceptual fine-tuning of racism as necessary for those who practice critical anti-racism as well as for understanding the relationship of knowledge and power as inseparable from such practices. Cases in point are not just the more visible examples of antisemitism or anti-Black discrimination but also the military aggression and genocide in Palestine, which are rooted in race-based violence. We need to define their cause in the concept of racism and analyze it in such a framework.7 Nevertheless, in so doing, we are faced with the dual challenge of recognizing the singularity of local phenomena while verbalizing them clearly and with care, while situating them in the framework of a universal criticism against racism. Even with the rise of new ultra-right-wing movements in the twenty-first century, which is so sensational that researchers cannot avoid talking about them, we must ask the critical questions I raised above. 

The Zaitokukai (short for Zainichi tokken o yurusanai shimin no kai, literally, the Association of Citizens against the Special Privileges of the Zainichi [diasporic Koreans in Japan]) was founded in 2007 with a manifesto calling for the explicit discrimination against ethnic minorities.8

In discussing the Zaitokukai phenomenon, it is Naoki Sakai who emphasizes the commonalities between Western racism and Japanese racism.9 From such a standpoint, Sakai argues that “contemporary racism increasingly emphasizes distinguishing between fellow countrymen and foreigners (jika no betsu) and the characteristic of exclusionism targeting those [foreigners] who come into the national community is becoming stronger.”10 However, he does not end there and further argues that, in such racism, a “pursuit of equality is expressed”: 

The fact is, even in racism which aims to eliminate and exclude minority groups, there is a point which expresses people’s aspiration for equality. We should not overlook this spark of some sort of universalism. However, their universalism assumes certain membership of qualified ethnic groups as holding rights to equality. Their (e.g. Zaitokukai and similar groups) xenophobia asserts that some unqualified individuals are enjoying the result of authority of equality as though they are qualified. In this sense, Zaitokukai’s racism rings the same as European right-wingers’ logic that we saw in the anti-migration movement.11 

By arguing that racism, which occurs at the edge of the nation, comes with the internal pursuit of equality, Sakai warns us that we should not look at racism as obvious discrimination but also as an idea of complex universalism (i.e. the pursuit of equality). Furthermore, Sakai points out that if we are to criticize racism, we should not stop at criticizing hateful forms of exclusion, but to further observe “humanism” hidden in racism. In this sense, I agree with him on his argument. However, I also argue that Sakai’s claim overlooks something crucial. More specifically, even if Zaitokukai’s racism and Western racism share a trait in their universal pursuit of equality, I still see a unique aspect in Zaitokukai’s racism. 

Right-wing protesters are gathered in the streets of Tokyo, flying the Japanese national flags as well as the Rising Sun Flags, which show red rays surrounding a red circle in the center, symbolizing the Sun. The latter design was adopted by the Imperial Japanese Army as a war flag during the World War II. Because it evokes Japanese war crimes, the design is controversial in Japan’s former colonies as well as for Allied WWII veterans.
Figure 1. Racist demonstration by Zaitokukai in Tokyo, October 14, 2018. Photo by author.

To help elaborate, I will now turn to my discussion of a scholar focusing on the unique aspects of Zaitokukai’s racism, contrary to Sakai’s approach: Higuchi Naoto, author of Japan’s Ultra-Right. This book analyzes the specificity of Zaitokukai.12 Higuchi outlines racism in Japan in the geopolitical context of Cold War Asia, arguing in the conclusion of Japan’s Ultra-Right that,

Japanese-style exclusionism is a dynamic of xenophobia defined by its relationship with neighboring nations and has its base in the result of colonial rules and the Cold War. Although the direct targets tend to be foreigners living in Japan, what runs deep is not negative stereotypes against foreigners but the historical relations with other nations. For this, Japanese-style exclusionism cannot be accounted for by an increase of foreigners or competition over employment opportunities as in the case of many other countries.13 

Higuchi’s conclusion rightfully points out that present day racism in Japan cannot be understood without taking into consideration the Cold War structure of East Asia, which sustains the Korean War power structure. At the same time, however, the Cold War as a geopolitical cause of racism alone cannot explain why a similar rise of right-wing organizations did not appear in the twentieth century (their increased presence on the Internet may partially explain this, but still cannot fully explain the entirety of this phenomenon). Furthermore, what this argument overlooks is the fact that the racist discourse of “Zainichi special privileges” had not existed in the immediate post-war period but instead started to be utilized as an extremely important medium of the new ultra-right movement primarily in the early twenty-first century. We should not just point out the inherent aspect of universalism found in racism or the local geopolitical background for the situation. Rather, what we need at this time more than ever is research, which helps us understand differences as well as commonalities, including universalism shared between racism in Japan and in the West. 

We could say that there are two reasons why this racist discourse of “Zainichi special privileges” has become one of the most crucial means of mobilization for the Japanese ultra-right. One is neoliberalism and the other is the 1952 Japanese immigration system (also known as the Alien Registration Act: Act No. 125 of 1952). I will not delve too much into neoliberalism here.14 Still, the discourse of “Zainichi special privileges” is not mere discrimination against or disinformation about ethnic minorities but is strongly connected to neoliberal governmentality, which utilizes the market as a true indicator of equality.15 It is true that racism relates to neoliberalism even in the Euro-American societies. However, while the European ultra-right focuses more on welfare chauvinism, members of the Japanese ultra-right tend to be extremely neoliberal.16 Only in twenty-first century Japan, where neoliberal governmentality is operating efficiently, has this peculiar racist discourse of “Zainichi special privileges” become effective (by “peculiar,” I mean to suggest the contradiction inherent in the racist discourse, which argues that the most powerless ethnic minorities in Japan are in fact the most powerful).

Second is the 1952 immigration system (for which, I attach my previously published article, “Racism in Japan and ‘The 1952 System’” below to give context for the readers). Legal scholar Onuma Yasuaki formulated the 1952 system, enacted during Treaty of Peace, becoming the foundation of Japan’s post-war immigration control law.17 This law consisted of three main parts: Immigration Control Order, Alien Registration Act, and Act no. 126 of 1952. The third in particular gave provisional residence status to those who had lost Japanese citizenship when the Treaty took effect.)18 

The 1952 system has been altered multiple times. Those from the former colonies including Zainichi Koreans were stripped of Japanese citizenship following the ratification of the Treaty of Peace with Japan under the Special Act on the Immigration Control of 1952. However, following a revision in the law in 1991, they were granted special permanent residency. Meanwhile, as the global neoliberal economy had an impact on Japan, the number of migrant workers increased sharply in the 1980s, which led the Immigration Control Order to be amended in 1989, closing the door on underpaid, deskilled workers in principle. Nevertheless, a “side-door” was left open by allowing for settlement, vocational training, or educational exchange. This way, the immigration control system was altered to let an exploitable labor flow into Japan.19 Until now, Japan has reformed the immigration law numerous times under the label of “anti-terrorism” or through the digitization of immigration controls. 

To be clear, even after multiple revisions of the law, I strongly believe that this law serves as the backbone of the structure of Japanese immigration control. While the Immigration Control Order and the Alien Registration Act are immigration laws, which is part of the general law, the Act No. 126 of 1952 is a form of special law. This fact has been used as a favored logic to attack those protected by the special law based on the belief that they are “privileged” in contrast to those who are only protected by the general law. To make matters even worse, with no law to prohibit racial discrimination, the post-war immigration system including the 1952 system has been utilized as an alternative tool to legitimize discrimination against Zainichi Koreans, even without having an overt discrimination policy like apartheid. 

Let us return to Sakai’s argument. It may be true that Zaitokukai’s racism involves some kind of “pursuit of equality.” But what kind of “equality” is it? Equality sullied by neoliberal governmentality? How about the effects of the 1952 system, which affects the “special resident status (tokubetsu eijū)” in Act no. 126 targeting non-Japanese citizens in the immigration law as a special case without anti-discrimination or multiculturalism policies? Such an immigration control system adheres to a “privileged” clause of the special resident status against the general quality of the law, enabling neoliberal governance to function effectively in accordance with the structure of immigration controls. Hasn’t this whole system been the cause of the racist discourse of Zainichi special privileges to spread with such force? Even if Japan’s racism includes “universalism” (as in a “pursuit of equality”) in the same way as the racism in the West, then all the more, we should not overlook the particularity of actual racist phenomenon manifesting itself in power relations.20

Acknowledgements

This essay is based on research funded by Grants-in-Aid for Scientific Research (KAKENHI) 23K12614.

Appendix

Yong-Song Ryang, “Nihon-gata Heitosupīchi o Sasaeru 1952-Nen Taisei: ‘Zainichi Tokken’ o Umidasu Sengo Nihon no Nyūkan Hōsei,” in Reishizumu wo Kangaeru, ed. Kiyohara Yu (Tokyo: Kyōwakoku, 2021), 195–213, trans. Dina Hassan.

Notes

  1. もちろん上のように問いを立てたからといって、私は日本のレイシズムと、欧米のレイシズムとを対立させて本質化させようとしているのでもなければ、両者の共通性と差異をやはり対立させてどちらかを選ばせようとしているのでもない。私はただ、日本のレイシズムを研究するうえで、私たちがまさしく巻き込まれている権力関係が、上のような問いに向き合うことを強いるという状況から目をそらしたくはないだけである。
     バリバール(2012)はレイシズムというカテゴリーそれじたいが第二次世界大戦後の反レイシズム実践を背景とした知-権力の次元で生産されていると示唆している。またバリバールはよく知られたように、レイシズムがナショナリズムと相互に補完し合うと指摘した(Balibar(2011))。これらを踏まえ、本稿の立場はレイシズムという概念を必要とするのは、むしろ現実の世界各地のracial discrimination(人種差別撤廃条約が禁止する行為)を批判しようとする人々の実践とそれと不可分の関係にある知-権力の関係だという立場に立っている。ここに、反セム主義や反黒人に限られず、たとえばパレスチナでのジェノサイドなど、世界各地で頻発するracial discriminationとその原因を「レイシズム」という概念で定義づけ、分析する必然性がある(梁 2020b)。ただしその際、特定の国・地域でのレイシズム現象を、普遍的なレイシズム批判の理論的枠組みから分析すると同時に、ローカルな現象の特異性(singularity)を抹消させずむしろそれを明確に言語化させねばならないという難問が、世界各地のレイシズムを研究する私たちに突きつけられているのではなかろうか。
  2.  コーネル大学人文学部教授の酒井直樹は日本では1980年代後半から、『死産され日本語・日本人』(新曜社)などの多数の著作で、レイシズムを精力的に批判する論者として知られてきた。
  3. 社会学者の樋口直人は樋口(2014)で、それまで研究がなかった、2000年代後半から台頭してきた日本の極右現象を、英語圏の極右研究理論と、在特会という極右団体参加者への質的調査を通じて分析した。
  4. 本稿の立場とは異なるが、明石(2010)は一般移住労働者を対象とした入管体制を「1990年体制」と定式化している。明石(2010)は在日コリアンなどの旧植民地出身者に対する入管政策を分析の対象としていない。
  5. Etienne Baribāru, “Reishizumu no Kōchiku,” trans. Satō Yoshiyuki, in Reishizumu Sutadīzu Jodatsu, ed. Ukai Satoshi, Sakai Naoki, Tessa Morris-Suzuki, Lee Hyoduk (Tokyo: Iwanami Shoten, 2012), 265–96.
  6. Étienne Balibar, “Racism and Nationalism,” in Race, Nation, Class: Ambiguous Identities, ed. Étienne Balibar and Immanuel Wallerstein (London: Verso, 2011), 37–68.
  7. Yong-Song Ryang, “1952-nen Taisei to Gendai Nihon no Shin Jiyū Shugi-teki Reishizumu ni Kansuru Ikkatsu” (PhD diss., Hitotsubashi University, 2011).
  8. Naoto Higuchi, Nihon-gata Haigai- shugi: Zaitokukai, Gaikokujin Sansei Ken, Higashi-Ajia Chiseigaku (Aichi: Nagoya Daigaku Shuppankai, 2014).
  9. Naoki Sakai is known for his scholarship, which has criticized racism since the late 1980s. See, for instance, his book Shisan sareru Nihongo / Nihonjin (Stillbirth of the Japanese Language and People) published by Shin’yōsha.
  10. Naoki Sakai, “Reishizumu Sutadīzu e no Shiza,” in Reishizumu Sutadīzu Jodatsu, eds. Ukai Tetsu, Sakai Naoki, Tessa Mōrisu-Suzuki, Yi Hyangdeok Hen (Tokyo: Iwanami Shoten, 2012), 41.
  11. Sakai, “Reishizumu Sutadīzu e no Shiza,” 40–1.
  12. Sociologist Higuchi Naoto has conducted qualitative research on participants in ultra-right organization Zaitokukai and draws from studies on far-right politics to analyze Japan’s ultra-right phenomenon, which emerged in the late 2000s. See Naoto Higuchi, Nihon-gata Haigai-shugi.
  13. Higuchi, Nihon-gata Haigai-shugi, 204.
  14. See Ryang, “1952-nen Taisei.”
  15. See Michel Foucault, The Birth of Biopolitics: Lectures at the Collège de France, 1978-1979 (London: Palgrave Macmillan).
  16. See Kobori Masahiro, “Popyurizumu no Nichi-Ei Hikaku: Neo-Riberaru-teki Popyurizumu to Iu Nihon no ‘Tokushoku,’” Ritsumeikan Hōgaku 5–6 (2012): 3417–43; Koga Mitsuo, “Ōshū ni Okeru Uyoku Popurisuto Seitō no Taitō,” in Kimyō na Nashonarizumu no Jidai: Haigai-shugi ni Kōshite, ed. Yamazaki Nozomu (Tokyo: Iwanami Shoten, 2015), 139–64.
  17. Editor’s note: Treaty of Peace, also known as the Treaty of San Francisco, was signed in 1951 by Japan and the Allied Powers, which ended Japanese imperial rule in its occupied territories and redefined its position as a war criminal responsible for the redress regarding its occupation of much of East and Southeast Asia, as well as for the POWs from the Allied countries.
  18. Ōnuma Yasuaki, “Shutsunyūkoku Kanri Hōsei no Seiteikatei: 1952-nen Taisei no Zenshi,” Kokusai Hōgaku no Saikōchiku (ge), ed. Terazawa Hajime et al. (Tokyo: Tōdai Shuppankai, 1978; repr. in Shinban Tan’itsu Minzoku Shakai no Shinwa o Koete: Zainichi Kankoku Chōsenjin to Shutsunyūkoku Kanri Taisei, Tokyo: Tōshindō, 1993), 257–328.
  19. I do not share the same view, but Akashi (2010) argued that the immigration system concerning the general migrant workers should be called “the 1990 system (1990nen taisei).” Akashi’s analysis does not focus on those who are from the former colonies, such as Zainichi Koreans. See Jun’ichi Akashi, Nyūkoku Kanri Seisaku: “1990-nen Taisei” no Seiritsu to Tenkai (Kyoto: Nakanishiya Shuppan, 2010).
  20. Much of this article also draws from the author’s own research on racism and Zainichi, which has been widely read in Japan. See Yong-Song Ryang, Nihon-gata Heitosupīchi to wa Nani ka: Shakai o Hakai Suru Reishizumu no Tōjō (Tokyo: Kage Shobō, 2016); Yong-Song Ryang, Reishizumu to wa Nani ka (Tokyo: Chikuma Shobō, 2020); Yong-Song Ryang, “Nihon-gata Heitosupīchi o Sasaeru Ichikyūgo-ni Nen Taisei: ‘Zainichi Tokken’ o Umidasu Sengo Nihon no Nyūkan Hōsei,” in Reishizumu wo Kangaeru, ed. Kiyohara Yu (Tokyo: Kyōwakoku, 2021), 195–213.